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望むものだけ、手に入る
もう1つのポリシーは、“望むものだけ、手に入る”です。 勉強や仕事をやらされている、またはやらなくてはならない、と思っているうちは、望む物の何分の1しか手に入らないと思うのです。 “やりたい、やるんだ”と思わないと、本当に望んだ結果にはなりません。 これは私自身の経験からの結論でもあるし、人を見てきた結論でもあります。
例えば「○○大学に入る。絶対に入る。」と「○○大学にはいりたいなぁ。入れたらいいなぁ。」ではぜっっんぜん違いますよね? 前者なら必要な情報を必死で集め、超前向きに勉強に取り組み、自分に何が足らないか、何を身に付ければ合格できるかを必死で分析するでしょう。 間違っても「単語が覚えらんな〜い」なんて愚痴りません。 もし覚えられなくても、覚えられないならどうするか? 覚え方を変えるか? 覚える量を減らすか? 最大でどこまで減らしても合格点が取れるか? を必死で考えたり調べたりするでしょう。 本当に望めば、このように泥臭くなるんです。
またたとえば、「勉強しなくちゃなぁ。けどなぁ。」と言う中学生。 このような中学生には、「いやなら勉強しなきゃいいじゃん。別に塾に来なくたっていいんだよ。」と本気で言います。 すると「でも勉強しなくちゃ高校に入れないし、高校に行かないと将来困るんでしょう?」と言います。 「中卒はいやだ。みんな高校行くし。」とも。
そこで私は、 「中卒の人に失礼だろう? 高校にいきたいなら勉強すればいいし、行かなくてもいいなら止めてもいいんだよ。やるか、やらないかは自分で決めるんだよ。目を閉じて、胸に手を当てて聞いてごらん。勉強したいの? したくないの? どっちかな? よく考えてごらん。」 と教育者らしく言おうとするのですが、少数派をバカにするやつにはキレるので、 「中卒の人に失礼だろがっ!! 高校に行きたいなら勉強しやがれ。行かなくてもいいならやめやがれ。やるか、やんねぇかはてめぇで決めるんだ。さぁ、勉強してぇのかしたくねぇのか、どっちなんだ? え? 早く言ってみろ、このタコ!」 と言うかどうかは内緒です。
なぜそこでキレるか。私の○○○○時代のツレは、中卒でした。 世の中卒イメージにおそらく反し、ものすごい努力家で研究もしていたし、またそうでなければ○○○○で食っていけるレベルにはなりません。 正義感が強く情に厚く、家族思いで、マンションも購入して立派に生活していました。今では他の仕事でも成功し、神奈川ではちょっと名の知れた人になりました。私は助けてもらったし、何より元戦友です。経済的に生きるも死ぬもともに、と信じた仲です。 とても尊敬しているし、今でもときどき家にお邪魔しています。
また、塾に通っていただいている保護者様の中にも、中卒の方はいらっしゃるでしょう。でもそんなことは関係なく、個別の塾に子供を通わせるだけの経済力と関心を持っていらっしゃる。そしてきっと、一生懸命生きていらっしゃる。話は逸れますが、大学を出て就職しただけで自分はエリートだと思い込んでいる輩より、私はそうした人の方が人間らしいと思うからです。 エリートはエリートたらんと思い努力するからこそ、または自分のことをエリートだとは思わずに不断の努力を続けたからこそエリートとなるのであって、学歴だけでエリートだと思っているやつはいつか痛い目に遭うはずです。また、専門的な資格や職業を持ち、それゆえにプライドと生活力を持っている方も、心から尊敬いたします。
さて、“教育は、人である”と考え、“望むものだけ、手に入る”として自主性を重んじ、しかも個別の塾ですので、万人に効果のある“システム”なんぞすぐにできるはずもありません。 ポリシーや理念を伝えられぬもどかしさは、夜も眠れぬほどです。眠れぬ代わりに、文才もなく商才もない私は、思いや勉強法をメモのようにワードに残しました。 ときどき、勉強法や、どこか他に必ずいるであろうアツい塾長の思いを探してネットの旅にも出ました。 しかし出てくるのは塾の宣伝とシステムと金儲けの話ばかり。 商才がなく、塾経営を商売だと思っていない私は真似しようにもできません。 いっそ広告自体を止めようと決意し、一切の宣伝をしていません。 その間、生徒数を維持し続けたのは、ひとえに現在のお客様に支持していただいたおかげです。 多大なる感謝の気持ちとともに、自分がしていることの正しさを確信することができています。 「自分のしていることが正しい」と心の底から感じ、自分が必要とされていることがわかるのは、どんな名誉や金銭よりも甲斐になります。 塾は私の生き甲斐であり、私から塾をとったら廃人になると妻からも言われております。
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